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名宰相、諸葛孔明の話と明石城。

諸葛孔明の名宰相たるゆえんはどこにあったのでしょうか。
孔明は八年の間に五回も大規模な遠征を試みています。
蜀という小さな国の総力を上げた戦いでした。
並みの指導者ならば、
国をガタガタにしてしまったに違いありません。

※ 舗装していない道のことを、
  ガタガタ道といっていました。
  私が子供の頃からの、普通に使っていた言葉です。

ところが孔明の場合は、厳しい戦いに明け暮れながらも、
国の政治にいささかの乱れも見せなかったそうです。
その統率力足るや、並々のものではありません。

その点に関して、こんな話があるそうです。
孔明は最後の遠征先になった五丈原で病に倒れました。
その知らせは、すぐさま蜀の都である成都にもたらされます。

蜀の二代目皇帝の劉禅は、陣中見舞い方々、
早速使者をつかわし、後継者の人事について
意見を求めました。

「もし、そなたに万一のことがあったら、あとはだれにやらせたらよいか」
孔明は第一に蒋エンという名を挙げました。
さらに使者が、
「蒋エン殿のあとは、どなたに」
と重ねて聞くと、孔明は
「費イにやらせるとよい」
と答え、さらに使者の、
「そのあとは」の問いには、
目をつぶったまま何も答えなかったといいます。

孔明なきあと蜀の全権を握ったのは、蒋エンです。
蒋エンは大将軍として十年くらい蜀を治めました。
蒋エンのあと政権についたのは、孔明の遺言通り、
費イでした。費イの政権も十年くらい続きました。

蒋エンと費イが政治を取り仕切った二十年間は、
内外ともあまり大きな事件はなく、蜀の人々は
平和な生活を楽しんだようです。
この二人の宰相はいずれも守成型で、軍事行動を控え、
国内政治の安定を優先させたからだと伝えられています。

孔明も、そこを見込んで
後継者に二人を指名したのかもしれません。

問題はその後です。
費イが死去したあと蜀の軍事上の実権を握ったのは、
姜維という将軍でした。

姜維も若いころから孔明に目をかけられ、
将来を嘱望されていました。
ところが、この姜維が実権を握ってから、国が傾き始めます。
孔明をまねて、何回も遠征軍を起こすようになります。
これによって、小国の蜀は急速に国力を消耗し、
やがて滅亡に至ります。その原因をつくったのは、
姜維によるたび重なる遠征であったと考えられています。

姜維も決して凡庸なリーダーではありませんでした。
勇気あふれる名将でした。
しかし、そういう人物でさえ、
何回か軍事行動を起こしているうちに
国を滅ぼす原因をつくってしまいました。

孔明は、似たような状況の中で、
八年間に五回の遠征を行いながら、
国の政治にいささかの乱れも出さなかったといわれています。

参考文献:
この一冊で『三国志』英雄のすべてがわかる!
守屋洋 著 三笠書房


明石公園 武蔵の庭園

明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)

写真は、明石公園内にある武蔵の庭園と、明石城の坤櫓です。
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