親ガチャという不平等 1
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2021年10月14日(木)の朝日新聞朝刊に、
親ガチャという不平等について、識者が考えを述べている記事がありました。
これは看過できない問題です。
大変分かりやすく、問題点を提示されていましたので、ここに掲載します。

オピニオン&フォーラム 耕論 親ガチャという不平等
「親は選べず、親次第で人生が決まってしまう」。
そんな人生観を表す「親ガチャ」を巡り、論争がわき起こった。
SNSのスラングとされるこの言葉に人はなぜ反応するのか。
実は親でなく社会の問題
土井隆義さん 社会学者 1960年生まれ。筑波大学教授。
著書に「『宿命』を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの」「友だち地獄」など。
親ガチャを巡っては、「自分の努力不足を親のせいにするな」という中高年に対し、若い世代は「分かっていない」と反発しています。私は、世代間の認識ギャップとして、この問題を理解する必要があると思います。
まず努力の認識が世代によって違います。日本経済が大きく成長していた1990年代までを体感した中高年は、進学・就職・昇進などで自分のなした努力以上のリターンを得ることができた。一方、30代以下は経済成長率が1%台の世界を生きてきた世代です。努力しても、そのリターンは小さなものになっている。「人生は努力する価値がある」と言われても、「努力して成果があるのか」と疑念が先に立ってしまうのです。

親ガチャという言葉のイメージのギャップもあります。子どもに「親ガチャに外れた」と言われたら、親は子育ての責任を非難されたと感じて不愉快でしょう。でも、多くの若い人は責任追及のつもりでは使っていません。ガチャの元々の意味と同じで、運と諦観しているにすぎない。クジに外れたからと、「クジの責任だ!」とは言わない。淡々と受け入れるだけです。
ただ、双六ゲームのようにこれからの人生が運によって決まるのではなく、生まれついた属性によって既に規定されていると感じている点で、宿命論的と言えます。右肩上がりの経済成長がほとんどない、平原のような社会を歩んできた若年層にとっては、特異な人生観ではありません。「親ガチャに外れた」と言う言葉を、会話の潤滑油として使う人もいれば、児童虐待に苦しむ人が深刻に使うケースもあります。本当に不幸だと認識しているかどうかは、ケース・バイ・ケースです。

断絶は世代間だけでなく、世代内にも存在します。経済的に豊かな家庭に育った若者と、そうでない若者との関係の分断から来る断絶です。前者は、中高年と同じく「自分の努力不足を親のせいにするな」と、親ガチャが「外れた」という若者を批判しがちです。でも、努力しようという意欲もまた環境によって育まれる面があることを見落としてはなりません。
私は、親ガチャという言葉で自分の境遇を考える若者にも、認識上の錯誤があると考えます。格差は私たちが作る社会制度によって解消されるべきものだからです。社会の問題を、個々の家庭の問題にすり替えてはいけません。若者自身も、この状況を改善するため、社会に対して声を上げてほしいと思います。すぐに出来ることは、やはり選挙で投票に行くことでしょう。自分の1票が社会を変えうる、とは考えにくいかもしれない。しかし投票は、自分の声を社会に届ける最も手近なチャンスのはずです。(聞き手 稲垣直人)

写真は、淡路島国営明石公園で撮影しました。
次回へ続きます。
親ガチャという不平等について、識者が考えを述べている記事がありました。
これは看過できない問題です。
大変分かりやすく、問題点を提示されていましたので、ここに掲載します。

オピニオン&フォーラム 耕論 親ガチャという不平等
「親は選べず、親次第で人生が決まってしまう」。
そんな人生観を表す「親ガチャ」を巡り、論争がわき起こった。
SNSのスラングとされるこの言葉に人はなぜ反応するのか。
実は親でなく社会の問題
土井隆義さん 社会学者 1960年生まれ。筑波大学教授。
著書に「『宿命』を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの」「友だち地獄」など。
親ガチャを巡っては、「自分の努力不足を親のせいにするな」という中高年に対し、若い世代は「分かっていない」と反発しています。私は、世代間の認識ギャップとして、この問題を理解する必要があると思います。
まず努力の認識が世代によって違います。日本経済が大きく成長していた1990年代までを体感した中高年は、進学・就職・昇進などで自分のなした努力以上のリターンを得ることができた。一方、30代以下は経済成長率が1%台の世界を生きてきた世代です。努力しても、そのリターンは小さなものになっている。「人生は努力する価値がある」と言われても、「努力して成果があるのか」と疑念が先に立ってしまうのです。

親ガチャという言葉のイメージのギャップもあります。子どもに「親ガチャに外れた」と言われたら、親は子育ての責任を非難されたと感じて不愉快でしょう。でも、多くの若い人は責任追及のつもりでは使っていません。ガチャの元々の意味と同じで、運と諦観しているにすぎない。クジに外れたからと、「クジの責任だ!」とは言わない。淡々と受け入れるだけです。
ただ、双六ゲームのようにこれからの人生が運によって決まるのではなく、生まれついた属性によって既に規定されていると感じている点で、宿命論的と言えます。右肩上がりの経済成長がほとんどない、平原のような社会を歩んできた若年層にとっては、特異な人生観ではありません。「親ガチャに外れた」と言う言葉を、会話の潤滑油として使う人もいれば、児童虐待に苦しむ人が深刻に使うケースもあります。本当に不幸だと認識しているかどうかは、ケース・バイ・ケースです。

断絶は世代間だけでなく、世代内にも存在します。経済的に豊かな家庭に育った若者と、そうでない若者との関係の分断から来る断絶です。前者は、中高年と同じく「自分の努力不足を親のせいにするな」と、親ガチャが「外れた」という若者を批判しがちです。でも、努力しようという意欲もまた環境によって育まれる面があることを見落としてはなりません。
私は、親ガチャという言葉で自分の境遇を考える若者にも、認識上の錯誤があると考えます。格差は私たちが作る社会制度によって解消されるべきものだからです。社会の問題を、個々の家庭の問題にすり替えてはいけません。若者自身も、この状況を改善するため、社会に対して声を上げてほしいと思います。すぐに出来ることは、やはり選挙で投票に行くことでしょう。自分の1票が社会を変えうる、とは考えにくいかもしれない。しかし投票は、自分の声を社会に届ける最も手近なチャンスのはずです。(聞き手 稲垣直人)

写真は、淡路島国営明石公園で撮影しました。
次回へ続きます。
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