大豆(ダイズ) 稲美町の芝桜
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おはようございます。
神戸市西部では、霧が出ていましたが、太陽が昇ってくると視界も開けてきました。
私のパソコンも、霧が出ている間は、自動修復にいそしんでおりました。
ああ、もう今日はあかんな…とあきらめかけたその時、機嫌が直って更新しています。
( ノД`)… 朝5時から2時間近く、くるくるですからね。
パソコン、決して古くはないのですが、良かったです。

「理系女性 活躍の道知って」
お茶の水女子大学が理系女性育成啓発研究所を発足させました、というニュースです。

ひととき欄は、春に思うもっちゃん。
天国のもっちゃんにこの思い、届け!と思いました。

(吉野家のお味噌汁)
ここからは、最近読んだ本、「世界史を大きく動かした植物」稲垣栄洋 著 PHP研究所
に、赤味噌について、興味深い記述がありましたので、紹介したいと思います。
家康が愛した赤味噌
徳川家康を支えた三河武士は、勇猛な武士団としてその名が知られていました。
この勇猛な武士団たちのソウルフードが味噌でした。江戸幕府を開いた後も、徳川家康とその家臣団は、三河の赤味噌を取り寄せていたといわれています。現在でも名古屋と言えば、味噌カツや味噌煮込みうどんなど、味噌文化で知られています。この名古屋の味噌は、独特の赤い豆味噌です。
豆味噌はもともと愛知県西部の尾張の国ではなく、家康のふるさとである愛知県東部の三河の国の特産品です。もともと味噌はダイズのみを原料として作られました。ところが、その後、技術が発達すると、発酵を早めて味噌造りの期間を短縮するために、コメや麦の麹が味噌に加えられるようになりました。また、味をまろやかにするために、豆を蒸して作る赤味噌から、豆をゆでて作る白味噌が創り出されました。
ところが、三河地域では昔ながらの豆味噌が作られていました。三河地域は水の便が悪い台地状の地形が多く、水田を拓くことができませんでした。さらに土地がやせているため、作物の栽培が困難な地域も多かったのです。そのため、やせた土地でも育つことができるダイズが盛んに栽培されました。そして、このダイズを利用して豆のみを使った豆味噌が作られ続けたのです。三河は土がやせていて決して恵まれているとは言えませんでした。また、冬には三河の空っ風と呼ばれる厳しい季節風が吹きすさびます。後に天下人となった家康を支えた三河節の屈強さは、この厳しい自然環境のなかで培われたのかもしれません。

武田信玄が育てた信州味噌
甲斐の武田信玄も、有名な味噌を作り上げています。それが信州味噌です。甲斐の武田信玄の領地は、山に囲まれた地形が多かったのです。田んぼが少なく、コメがとれない山国では、昔からダイズを使った味噌作りが盛んでした。信州味噌が作られた信濃は、当時、武田信玄の支配下にありました。武田信玄が考案したものは「陣立味噌」と呼ばれています。
陣立味噌は、豆を煮てすりつぶし、麹を加えて丸めたものです。こうしておくと、行軍をしている間に発酵が進み、味噌として食べることができます。この陣立味噌は非常に実用的なので、戦国時代には多くの武将が用いていました。いかにも実利主義らしい信玄の考案です。
武田家の文書には、「川中島をはじめ信濃国全域の左右五里(約二十キロ)に味噌作りを奨励すること」と記されています。川中島は、信玄のライバルである越後の国の上杉謙信との戦いが繰り返された場所です。信玄は、戦いに備えてダイズ作りを勧め、味噌作りを奨励したのです。この武田信玄の兵糧が、後に信州味噌として全国に名を馳せるようになるのです。

伊達政宗と仙台味噌
仙台味噌もまた軍事職として発達しました。仙台味噌は、伊達政宗ゆかりの味噌です。伊達政宗は、軍事用の保存食として味噌を重視しました。そして、仙台城下に「御塩噌蔵」と呼ばれる味噌醸造所を設け、大規模に味噌を製造しました。この御塩噌蔵は日本初の味噌工場と言われています。
仙台味噌が有名になったのは、秀吉の朝鮮出兵です。夏場の長期戦で他の武将の味噌は腐敗してしまいましたが、伊達政宗が持参した味噌は変質しませんでした。そして、政宗はこの味噌を他の武将にも分け与えたため、政宗の味噌は一気に名声を得ました。そして、政宗の持参した味噌は「仙台味噌」と呼ばれるようになったのです。
一般に味噌はダイズのみで作ると赤味噌になり、米麹を加えることで白味噌になります。仙台味噌は米麹が少なくダイズが多い赤味噌です。家康の本拠地である三河は田んぼが少なかったため、ダイズのみで作る赤味噌が作られました。一方、仙台平野はコメどころのイメージがあります。どうして、コメどころの仙台でダイズの多い赤味噌が作られたのでしょう?
伊達政宗が東北を制したとき、天下はすでに秀吉のものになろうとしていました。そのため、政宗は秀吉や後の天下人である徳川家康の下で辛酸をなめさせられました。秀吉から一揆鎮圧を命じられた政宗は、一揆を収めましたが、一揆扇動の嫌疑を掛けられて居城の米沢城を没収されてしまいました。そして、一揆で荒れ果てた宮城を授かったのです。今でこそ豊かな水田地帯である仙台平野ですが、当時は湿地が広がるだけで、農業には不向きな土地だったのです。




稲美町の芝桜は、2022年4月22日に撮影しました。
今週も良い一日をお送りください。
神戸市西部では、霧が出ていましたが、太陽が昇ってくると視界も開けてきました。
私のパソコンも、霧が出ている間は、自動修復にいそしんでおりました。
ああ、もう今日はあかんな…とあきらめかけたその時、機嫌が直って更新しています。
( ノД`)… 朝5時から2時間近く、くるくるですからね。
パソコン、決して古くはないのですが、良かったです。

「理系女性 活躍の道知って」
お茶の水女子大学が理系女性育成啓発研究所を発足させました、というニュースです。

ひととき欄は、春に思うもっちゃん。
天国のもっちゃんにこの思い、届け!と思いました。

(吉野家のお味噌汁)
ここからは、最近読んだ本、「世界史を大きく動かした植物」稲垣栄洋 著 PHP研究所
に、赤味噌について、興味深い記述がありましたので、紹介したいと思います。
家康が愛した赤味噌
徳川家康を支えた三河武士は、勇猛な武士団としてその名が知られていました。
この勇猛な武士団たちのソウルフードが味噌でした。江戸幕府を開いた後も、徳川家康とその家臣団は、三河の赤味噌を取り寄せていたといわれています。現在でも名古屋と言えば、味噌カツや味噌煮込みうどんなど、味噌文化で知られています。この名古屋の味噌は、独特の赤い豆味噌です。
豆味噌はもともと愛知県西部の尾張の国ではなく、家康のふるさとである愛知県東部の三河の国の特産品です。もともと味噌はダイズのみを原料として作られました。ところが、その後、技術が発達すると、発酵を早めて味噌造りの期間を短縮するために、コメや麦の麹が味噌に加えられるようになりました。また、味をまろやかにするために、豆を蒸して作る赤味噌から、豆をゆでて作る白味噌が創り出されました。
ところが、三河地域では昔ながらの豆味噌が作られていました。三河地域は水の便が悪い台地状の地形が多く、水田を拓くことができませんでした。さらに土地がやせているため、作物の栽培が困難な地域も多かったのです。そのため、やせた土地でも育つことができるダイズが盛んに栽培されました。そして、このダイズを利用して豆のみを使った豆味噌が作られ続けたのです。三河は土がやせていて決して恵まれているとは言えませんでした。また、冬には三河の空っ風と呼ばれる厳しい季節風が吹きすさびます。後に天下人となった家康を支えた三河節の屈強さは、この厳しい自然環境のなかで培われたのかもしれません。

武田信玄が育てた信州味噌
甲斐の武田信玄も、有名な味噌を作り上げています。それが信州味噌です。甲斐の武田信玄の領地は、山に囲まれた地形が多かったのです。田んぼが少なく、コメがとれない山国では、昔からダイズを使った味噌作りが盛んでした。信州味噌が作られた信濃は、当時、武田信玄の支配下にありました。武田信玄が考案したものは「陣立味噌」と呼ばれています。
陣立味噌は、豆を煮てすりつぶし、麹を加えて丸めたものです。こうしておくと、行軍をしている間に発酵が進み、味噌として食べることができます。この陣立味噌は非常に実用的なので、戦国時代には多くの武将が用いていました。いかにも実利主義らしい信玄の考案です。
武田家の文書には、「川中島をはじめ信濃国全域の左右五里(約二十キロ)に味噌作りを奨励すること」と記されています。川中島は、信玄のライバルである越後の国の上杉謙信との戦いが繰り返された場所です。信玄は、戦いに備えてダイズ作りを勧め、味噌作りを奨励したのです。この武田信玄の兵糧が、後に信州味噌として全国に名を馳せるようになるのです。

伊達政宗と仙台味噌
仙台味噌もまた軍事職として発達しました。仙台味噌は、伊達政宗ゆかりの味噌です。伊達政宗は、軍事用の保存食として味噌を重視しました。そして、仙台城下に「御塩噌蔵」と呼ばれる味噌醸造所を設け、大規模に味噌を製造しました。この御塩噌蔵は日本初の味噌工場と言われています。
仙台味噌が有名になったのは、秀吉の朝鮮出兵です。夏場の長期戦で他の武将の味噌は腐敗してしまいましたが、伊達政宗が持参した味噌は変質しませんでした。そして、政宗はこの味噌を他の武将にも分け与えたため、政宗の味噌は一気に名声を得ました。そして、政宗の持参した味噌は「仙台味噌」と呼ばれるようになったのです。
一般に味噌はダイズのみで作ると赤味噌になり、米麹を加えることで白味噌になります。仙台味噌は米麹が少なくダイズが多い赤味噌です。家康の本拠地である三河は田んぼが少なかったため、ダイズのみで作る赤味噌が作られました。一方、仙台平野はコメどころのイメージがあります。どうして、コメどころの仙台でダイズの多い赤味噌が作られたのでしょう?
伊達政宗が東北を制したとき、天下はすでに秀吉のものになろうとしていました。そのため、政宗は秀吉や後の天下人である徳川家康の下で辛酸をなめさせられました。秀吉から一揆鎮圧を命じられた政宗は、一揆を収めましたが、一揆扇動の嫌疑を掛けられて居城の米沢城を没収されてしまいました。そして、一揆で荒れ果てた宮城を授かったのです。今でこそ豊かな水田地帯である仙台平野ですが、当時は湿地が広がるだけで、農業には不向きな土地だったのです。




稲美町の芝桜は、2022年4月22日に撮影しました。
今週も良い一日をお送りください。
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