書写山 円教寺 5
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書写山 円教寺の続きを書きます。
長かった騒乱の時代も終わり、江戸時代に入ると書写山は本来の荘厳さを取り戻し、西国三十三ヵ所巡礼の第二十七番札所として賑わいを見せ始めます。
西国巡礼とは、近畿地方を中心に由緒ある観音菩薩の霊場を順に巡り、巡礼札を納めていくものです。太平の世が続き、旅に出ることも気軽になったため、巡礼に回る人が増え、
書写山のお山にも
「はるばると 登れば書写の山おろし 松の響きも み法なるらん」
の御詠歌が響きわたるようになりました。
こうして一千年の法灯を今に伝える書写山円教寺は、今日も訪れる老若男女を温かく包み込み、祈りの山として人々に迎えられています。
金剛堂です。


三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂でした。内部には仏壇を設け、厨子を安置しています。天井には天女などの絵が描かれています。性空上人は、この地において金剛薩埵にお会いになり、密教の印を授けられたといいます。普賢院は永観2年(984年)の創建で、性空上人の居所であったと伝えられますが、明治40年に明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却されました。(戦災で消失)本尊の金剛薩埵像は、現在、食堂に安置されています。
鐘楼です。


袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っています。寺伝によれば、鐘楼は元弘2年(1332年)に再建、鐘は元亨4年(1324年)に再鋳とされています。いずれも確証はありませんが、形や手法から14世紀前半のものと推定されています。鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として兵庫県下では最古の遺構で、全国的にも極めて古いものとして貴重です。
法華堂です。
法華三昧堂といい、創建は寛和3年(985年)
播磨国司藤原季孝によって建立されました。
もとは桧皮葺でした。現在のものは建物、
本尊ともに江戸時代の造立です。
書写山からみた眺めです。


左の写真はロープウエイ山上駅付近より撮りました。
右の写真は金剛堂近くの展望台からです。

西国巡礼とは、近畿地方を中心に由緒ある観音菩薩の霊場を順に巡り、巡礼札を納めていくものです。太平の世が続き、旅に出ることも気軽になったため、巡礼に回る人が増え、
書写山のお山にも
「はるばると 登れば書写の山おろし 松の響きも み法なるらん」
の御詠歌が響きわたるようになりました。
こうして一千年の法灯を今に伝える書写山円教寺は、今日も訪れる老若男女を温かく包み込み、祈りの山として人々に迎えられています。
金剛堂です。


三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂でした。内部には仏壇を設け、厨子を安置しています。天井には天女などの絵が描かれています。性空上人は、この地において金剛薩埵にお会いになり、密教の印を授けられたといいます。普賢院は永観2年(984年)の創建で、性空上人の居所であったと伝えられますが、明治40年に明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却されました。(戦災で消失)本尊の金剛薩埵像は、現在、食堂に安置されています。
鐘楼です。


袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っています。寺伝によれば、鐘楼は元弘2年(1332年)に再建、鐘は元亨4年(1324年)に再鋳とされています。いずれも確証はありませんが、形や手法から14世紀前半のものと推定されています。鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として兵庫県下では最古の遺構で、全国的にも極めて古いものとして貴重です。
法華堂です。

播磨国司藤原季孝によって建立されました。
もとは桧皮葺でした。現在のものは建物、
本尊ともに江戸時代の造立です。
書写山からみた眺めです。


左の写真はロープウエイ山上駅付近より撮りました。
右の写真は金剛堂近くの展望台からです。
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