須磨 敦盛塚
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旗振山で休憩した後、噴水のある広場を目指して歩くことにしました。

須磨は海から急に山がせりあがっている感じです。

このリフトに乗ったら、展望閣へ戻れる……。

最初にBコースを選んだからには、歩くのだ。

ミニカーランドで遊ぶ家族連れ。楽しそうです♪

噴水のある広場に着きました。
ハイカーのおじさん達もここで休憩していました。

淡路島と明石海峡大橋です。
透明度が良ければもっとはっきり見えるのですが。
須磨浦公園駅より西へ100m歩いて行くと、北側に
敦盛塚(あつもりづか)と呼ばれる五輪塔があります。

平敦盛は、平清盛の弟、経盛の末子で、合戦当時16歳でした。
笛の名手としても知られていましたが、武運つたなく一の谷の合戦で、
源氏の武将、熊谷次郎直実によって討たれました。
この少年武将を供養するために塔を建立したという伝承から
敦盛塚と呼ばれるようになったといわれています。
また鎌倉幕府の執権、北条貞時が、1286(弘安9)年に
平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたのが
「あつもり塚」と転訛したという説もあります。
人々はこれを敦盛の塚と考え、石塔の前を往来する旅人や、
参勤交代の大名たちも香花をたむけていたそうです。
案内板の内容を記します。

神戸市指定有形文化財 敦盛塚石造五輪塔 指定年月日 平成9年10月23日
この五輪塔は花崗岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては
石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で第2位の規模を誇ります。
法量は総高397cm、2石から成る地輪は幅126cm、高さ98.5cm、
水輪は最大径130.4cm、高さ99cmで下部がすぼまり、火輪は軒幅
126.4×119cm、高さ75.8cm(上面に径30cm、深さ20cmの柄穴)、
風、空輪は一石彫製で、風輪の径73cm、高さ56cm、空輪の最大径69cm、
高さ72.9cm。

各輪四方にそれぞれ五輪塔四門の梵字を薬研彫りに配している。
紀年銘はなく、梵字が大きいことや水輪や火輪の様式にやや古調がみられるが、
風、空輪は明らかに近世塔の先駆的様式を示していることから、室町時代末期から
桃山時代にかけての製作と思われる。
昭和60年(1985)4月に、神戸市教育委員会が周辺整備のための発掘調査を
行ったところ、下半部が埋没した地輪の下に、四角に囲った板石とその中に
2枚の石から成る基檀遺構があることが分かった。このため、基壇の上部を地表に
現し、地輪部以上を完全に露出するように積み直した。
平成11年3月 神戸市教育委員会
4m近くある塔は、目の前で見ると巨大でした。
現地へ訪れて、見る価値があると思います。(^-^)

須磨は海から急に山がせりあがっている感じです。

このリフトに乗ったら、展望閣へ戻れる……。

最初にBコースを選んだからには、歩くのだ。

ミニカーランドで遊ぶ家族連れ。楽しそうです♪

噴水のある広場に着きました。
ハイカーのおじさん達もここで休憩していました。

淡路島と明石海峡大橋です。
透明度が良ければもっとはっきり見えるのですが。
須磨浦公園駅より西へ100m歩いて行くと、北側に
敦盛塚(あつもりづか)と呼ばれる五輪塔があります。

平敦盛は、平清盛の弟、経盛の末子で、合戦当時16歳でした。
笛の名手としても知られていましたが、武運つたなく一の谷の合戦で、
源氏の武将、熊谷次郎直実によって討たれました。
この少年武将を供養するために塔を建立したという伝承から
敦盛塚と呼ばれるようになったといわれています。
また鎌倉幕府の執権、北条貞時が、1286(弘安9)年に
平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたのが
「あつもり塚」と転訛したという説もあります。
人々はこれを敦盛の塚と考え、石塔の前を往来する旅人や、
参勤交代の大名たちも香花をたむけていたそうです。
案内板の内容を記します。

神戸市指定有形文化財 敦盛塚石造五輪塔 指定年月日 平成9年10月23日
この五輪塔は花崗岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては
石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で第2位の規模を誇ります。
法量は総高397cm、2石から成る地輪は幅126cm、高さ98.5cm、
水輪は最大径130.4cm、高さ99cmで下部がすぼまり、火輪は軒幅
126.4×119cm、高さ75.8cm(上面に径30cm、深さ20cmの柄穴)、
風、空輪は一石彫製で、風輪の径73cm、高さ56cm、空輪の最大径69cm、
高さ72.9cm。

各輪四方にそれぞれ五輪塔四門の梵字を薬研彫りに配している。
紀年銘はなく、梵字が大きいことや水輪や火輪の様式にやや古調がみられるが、
風、空輪は明らかに近世塔の先駆的様式を示していることから、室町時代末期から
桃山時代にかけての製作と思われる。
昭和60年(1985)4月に、神戸市教育委員会が周辺整備のための発掘調査を
行ったところ、下半部が埋没した地輪の下に、四角に囲った板石とその中に
2枚の石から成る基檀遺構があることが分かった。このため、基壇の上部を地表に
現し、地輪部以上を完全に露出するように積み直した。
平成11年3月 神戸市教育委員会
4m近くある塔は、目の前で見ると巨大でした。
現地へ訪れて、見る価値があると思います。(^-^)
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