西宮砲台
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西宮市西波止町にある、西宮砲台(国史跡)です。

1853年(嘉永6年)6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの来航、
翌年1月の再航、同年9月、ロシア極東艦隊司令長官プチャーチンの大阪湾進入など、
情勢が緊迫するなかで、江戸幕府は摂海の砲台建設計画に、本格的に取り組みました。

1863年(文久3年)2月、幕府は老中格小笠原長行に台場築立御用掛を命じました。
小笠原は、前年末の西宮・兵庫地方の地形巡視に続いて、再び軍艦奉行並勝海舟(義邦)を伴って
兵庫に出張し、砲台設置の場所を和田岬・湊川出洲・西宮・天保山沖に決定しました。
勝海舟は実地調査の任にあたり、同年3月には西宮海岸で砲台の地所を決定しました。

西宮砲台は西宮町西浜海岸、今津砲台は旧今津村の海岸(現、今津真砂町)に
建造が決まり、両砲台の工事は並行して進められました。
工事は8月より井戸堀り、基礎工事のための地杭い打ちがはじまり、
1000本以上のマツの杭が打ち込まれました。
材料石は、舟での運搬に適した瀬戸内海の島々からも調達されました。
工事に従事した職人・人足らの賃金も高騰し、工事も容易に進みませんでしたが、
1866年(慶応2年)にようやく完成しました。

石造3層、内径17m、高さ12m、11の砲眼があけられ、大砲2門を設置。
外面は漆喰塗上げとされました。
現在では一部を残すのみですが、周囲には土塁がめぐらしてありました。

砲台は、実戦に使われることなく明治維新を迎えました。
今津砲台は民間に払い下げられた後、1915年(大正4年)に取り壊されました。
現在は今津灯台より港をはさんで東側に碑がたつのみです。
(兵庫県の歴史散歩 上 山川出版社より)

4月17日に撮影しました。
日が傾く中、しばらく昔に思いを馳せて散歩していました。

1853年(嘉永6年)6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの来航、
翌年1月の再航、同年9月、ロシア極東艦隊司令長官プチャーチンの大阪湾進入など、
情勢が緊迫するなかで、江戸幕府は摂海の砲台建設計画に、本格的に取り組みました。

1863年(文久3年)2月、幕府は老中格小笠原長行に台場築立御用掛を命じました。
小笠原は、前年末の西宮・兵庫地方の地形巡視に続いて、再び軍艦奉行並勝海舟(義邦)を伴って
兵庫に出張し、砲台設置の場所を和田岬・湊川出洲・西宮・天保山沖に決定しました。
勝海舟は実地調査の任にあたり、同年3月には西宮海岸で砲台の地所を決定しました。

西宮砲台は西宮町西浜海岸、今津砲台は旧今津村の海岸(現、今津真砂町)に
建造が決まり、両砲台の工事は並行して進められました。
工事は8月より井戸堀り、基礎工事のための地杭い打ちがはじまり、
1000本以上のマツの杭が打ち込まれました。
材料石は、舟での運搬に適した瀬戸内海の島々からも調達されました。
工事に従事した職人・人足らの賃金も高騰し、工事も容易に進みませんでしたが、
1866年(慶応2年)にようやく完成しました。

石造3層、内径17m、高さ12m、11の砲眼があけられ、大砲2門を設置。
外面は漆喰塗上げとされました。
現在では一部を残すのみですが、周囲には土塁がめぐらしてありました。

砲台は、実戦に使われることなく明治維新を迎えました。
今津砲台は民間に払い下げられた後、1915年(大正4年)に取り壊されました。
現在は今津灯台より港をはさんで東側に碑がたつのみです。
(兵庫県の歴史散歩 上 山川出版社より)

4月17日に撮影しました。
日が傾く中、しばらく昔に思いを馳せて散歩していました。
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