赤穂城跡
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播州赤穂駅です。2009年10月初旬に訪れたときの写真です。

この日は駅前でレンタル自転車を借りて移動しました。
目的地は、赤穂城跡です。
赤穂城跡 赤穂市上仮屋 JR赤穂線 播州赤穂駅より徒歩10分です。

赤穂駅の前には大石内蔵助の銅像が立っています。

駅でガイドブックを入手しましたが、案内表示も分かりやすいと思います。
大通りを800mほど進むと、赤穂城跡(国史跡)に出ます。

千種川の河口にはじめて城を築いたのは、赤松満祐の一族の岡豊前守で、室町時代の
15世紀中ごろのことであったといいます。その後、戦国時代末期に宇喜多氏が、
江戸時代初期には池田輝政がこの城を領有し、それぞれ城を修復しました。

門を入ってすぐのところに休憩所がありました。
大石邸長屋門です。

この門は、浅野家筆頭家老 大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた
大石屋敷の正面門長屋である。門口、約26.8m 奥行、約4.8mの建物で、
屋根瓦には双ツ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、
内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。

かつては、内蔵助と主悦の父子が朝夕出入りし、
また元禄14年3月主君の刀傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。

安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正12年国の史跡に指定された。

さらに昭和37年に屋根の大修理を行ったが、老朽化甚だしく、
昭和52年11月から国、兵庫県及び赤穂市の負担により、
総工費3,138万余円をかけて前面解体修理を行い、昭和53年10月末に復元完了した。
(赤穂義士会)
赤穂城の本丸跡に建つ本丸門です。

日本三大水道の1つとされる赤穂水道が敷設されたのは、池田輝政のころという。
その後、輝政の5男政綱のときに赤穂藩として一応独立し、藩邸の体裁も整ったが、
城としてはまだ小規模なものであったといわれます。

赤穂城が現在のような規模に発展するのは、江戸時代初期の1645(正保2)年、
常陸笠間から浅野長直が入封してからのことです。その後、13年の歳月を経て
完成したこの城は、背後に海を控え、本丸の周りに二の丸が同心円状に展開する「輪郭式」、
三の丸は本丸の正面(北側)にのみ広がる「梯郭式」の、いわゆる変形輪郭式の形式をとっています。

この城を築いた浅野氏は、長直の孫長矩が、有名な松の廊下の刃傷事件をおこして
1701(元禄14)年に断絶しました。以後の事件は「忠臣蔵」として語り継がれています。
このときに赤穂城の受け取りを行ったのが、隣の龍野藩脇坂氏でした。
その後、備中西江原から森氏が転封となり、明治維新まで続きました。
赤穂城の主な建物は明治時代に廃棄され、大手門や隅櫓は1955(昭和30)年に復元されたものです。
しかし、大手門付近の枡形をはじめ、三の丸にある大石家長屋門(国史跡)、
その向かいにある、城の縄張りを行ったことで知られる近藤正純の子源八の屋敷(源八長屋)や、
本丸周辺の石垣など、当時を伝えるものも多く残っています。
近年、発掘調査と並行して本丸御殿跡の復元などが行われました。
旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)は、2002(平成14)年に国の名勝に指定されています。
毎年12月14日には、「忠臣蔵」の赤穂藩四十七士にちなんで、義士祭が城下で行われています。

本丸の内部には本丸御殿と天守台が造営されました。
付櫓を伴う複合式の天守台で、高さ九メートルにおよぶ大規模なものですが、天守は建てられませんでした。
(参考 兵庫県の歴史散歩 下 山川出版社より)

天守台は登ることができます。


赤穂城 天守台からの景色です。
遠くの山なみがよく見えて、気持ち良いです。(^-^)

この日は駅前でレンタル自転車を借りて移動しました。
目的地は、赤穂城跡です。
赤穂城跡 赤穂市上仮屋 JR赤穂線 播州赤穂駅より徒歩10分です。

赤穂駅の前には大石内蔵助の銅像が立っています。

駅でガイドブックを入手しましたが、案内表示も分かりやすいと思います。
大通りを800mほど進むと、赤穂城跡(国史跡)に出ます。

千種川の河口にはじめて城を築いたのは、赤松満祐の一族の岡豊前守で、室町時代の
15世紀中ごろのことであったといいます。その後、戦国時代末期に宇喜多氏が、
江戸時代初期には池田輝政がこの城を領有し、それぞれ城を修復しました。

門を入ってすぐのところに休憩所がありました。
大石邸長屋門です。

この門は、浅野家筆頭家老 大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた
大石屋敷の正面門長屋である。門口、約26.8m 奥行、約4.8mの建物で、
屋根瓦には双ツ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、
内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。

かつては、内蔵助と主悦の父子が朝夕出入りし、
また元禄14年3月主君の刀傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。

安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正12年国の史跡に指定された。

さらに昭和37年に屋根の大修理を行ったが、老朽化甚だしく、
昭和52年11月から国、兵庫県及び赤穂市の負担により、
総工費3,138万余円をかけて前面解体修理を行い、昭和53年10月末に復元完了した。
(赤穂義士会)
赤穂城の本丸跡に建つ本丸門です。

日本三大水道の1つとされる赤穂水道が敷設されたのは、池田輝政のころという。
その後、輝政の5男政綱のときに赤穂藩として一応独立し、藩邸の体裁も整ったが、
城としてはまだ小規模なものであったといわれます。

赤穂城が現在のような規模に発展するのは、江戸時代初期の1645(正保2)年、
常陸笠間から浅野長直が入封してからのことです。その後、13年の歳月を経て
完成したこの城は、背後に海を控え、本丸の周りに二の丸が同心円状に展開する「輪郭式」、
三の丸は本丸の正面(北側)にのみ広がる「梯郭式」の、いわゆる変形輪郭式の形式をとっています。

この城を築いた浅野氏は、長直の孫長矩が、有名な松の廊下の刃傷事件をおこして
1701(元禄14)年に断絶しました。以後の事件は「忠臣蔵」として語り継がれています。
このときに赤穂城の受け取りを行ったのが、隣の龍野藩脇坂氏でした。
その後、備中西江原から森氏が転封となり、明治維新まで続きました。
赤穂城の主な建物は明治時代に廃棄され、大手門や隅櫓は1955(昭和30)年に復元されたものです。
しかし、大手門付近の枡形をはじめ、三の丸にある大石家長屋門(国史跡)、
その向かいにある、城の縄張りを行ったことで知られる近藤正純の子源八の屋敷(源八長屋)や、
本丸周辺の石垣など、当時を伝えるものも多く残っています。
近年、発掘調査と並行して本丸御殿跡の復元などが行われました。
旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)は、2002(平成14)年に国の名勝に指定されています。
毎年12月14日には、「忠臣蔵」の赤穂藩四十七士にちなんで、義士祭が城下で行われています。

本丸の内部には本丸御殿と天守台が造営されました。
付櫓を伴う複合式の天守台で、高さ九メートルにおよぶ大規模なものですが、天守は建てられませんでした。
(参考 兵庫県の歴史散歩 下 山川出版社より)

天守台は登ることができます。


赤穂城 天守台からの景色です。
遠くの山なみがよく見えて、気持ち良いです。(^-^)
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